私の住むところでは、私が袋にまとめて捨てたゴミは必ず破られて漁(あさ)られます。
いつも決まって漁る子供たち(タリべの子供たち)は、何か使えるものはないかと必ずチェックしています。
私が捨てた直後に、私が見ていないか気にながら破こうとします。
少し後ろめたいという意識はあるようです。
「やめて。」
と直接言うとその場ではやめるのですが、家に帰ってくると、結局ゴミ袋は破られて、散乱しています。
私が心がけているのは、ゴミを減らすことです。
ペットボトルやビン、箱などの容器は持っていかれやすいので、別の袋に分けてゴミ箱(ドラム缶)の脇に置いておきます。
そうしておくと、その日のうちに、容器を入れた袋は破られずに、見事に回収されています。
再利用システムが出来上がっているというわけです。
マルシェ(市場)には、空き容器、例えば使った後のペットボトル売り家があるので、おそらくそういう店に届けたり、個人で使ったりするのだと思います。
朝の小学校では、子供たちが教室を掃除する習慣があります。
子供たちは、授業中、教室の床にぽいぽいゴミを捨てます。
これは悪いことという認識がセネガルではないので、みんなが当たり前にゴミを教室の床へ捨てるのです。
前の日に床に捨てたゴミを、次の日に掃除するという流れなので、日本では考えられない量のゴミが、各教室の床から掃き出されます。
教室の中から出てきた大量のゴミは1度砂の上に掃き出して、それから「ふるい」にかけて選別しています。
豪快な掃きっぷりと、繊細な選別の作業が混ざっているという日本では見ない掃除の風景です。
ふるいは、食べ物の缶に穴を開けたものが主流です。
こういった手作りのものがマルシェ(市場)で売られているのです。
この学校で集められたゴミはどこへ行くかというと、教室と学校の塀(へい)の間のスペースに集められます。
そして、焼かれます。
缶ゴミが混ざっているなど、分別という概念が全くありません。
子供がここに来て、残り火で物を燃やしていることもあり、子供にも身近な場所です。
地味に燃え続けている周りに、休み時間は子供たちが普通に遊んでいます。
燃え切らないゴミもあるので、次々と溜まっていきます。